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味どうらくの里誕生秘話

商品開発秘話

 社長佐竹の言葉に「成るまでやる」という言葉があります。途中で諦めると、そこで終わり、結果が出ます。しかし「成るまでやる」と今現在は途中経過でしかないということ。

第一章 決意

 佐竹は、大学卒業後に栃木県内の会計事務所に勤め、企業の経営指導の仕事をしておりました。その頃の東北醤油はといいますと、味噌と醤油を造っている零細企業でした。当時の社長(現会長)から経営に困っていた話を聞いた佐竹は、強いご縁を感じ、東北醤油に行くことを決心しました。
東北醤油に行くことを決めた佐竹に、顧問先のおそば屋さん・うどん屋さんは「お醤油屋さんに行くのなら『うどんつゆ・そばつゆ』をつくりなさい」と言って送り出してくれました。
 それからが困難の連続となります。『万能つゆ 味どうらくの里』の歴史は今からおよそ30年ほど前、佐竹が東北醤油株式会社に入社してから始まります。

第二章 試作と挫折

 当時、秋田県には高速道路が通っておらず、秋田新幹線も有りません。『つゆ』を作るのは社内で佐竹一人、出来た『つゆ』の試作品の味を、前顧問先のおそば屋さんのご主人(当時、全国麺類飲食業者組合の副会長)にお願いをし、味を見て頂くことになりました。
『つゆ』の試作品を持って車を運転し、東北自動車道の盛岡南ICから栃木県鹿沼に行くのに、片道8時間半もかかりました。おそば屋さんのお昼の営業時間が終わるのを2時間待ち、御主人に持参した試作品を試食して頂いたのは5分ほどです。
 一度目「ダメ」
 二度目も「ダメ」
 三度目も「ダメ」でした。
遠い所、何度も試作品の『つゆ』を持って訪ねて来る姿を見かねたおそば屋さんの奥様が、助け船を出してくれました。
「佐竹さん。何でダメかわかりますか?」
「・・・」
「ほら。お客様が顔をしかめて食べないでしょ。香りがこちらの方では合わないんです。」そこで、おそば屋さんのご主人から、
「全国ブランドにするつもりでつくっていますか?そうだったら本醸造醤油で作らないとだめだよ」と教えて頂きました。
醤油には、アミノ酸などを調合して造る新式醸造と、時間をかけじっくりと熟成をさせてうま味を引き出して造る本醸造醤油があります。本醸造醤油は香りが良いのですが、新式醸造の醤油に比べると値段が高くなってしまいます。東北醤油はもちろん、当時秋田県内のお醤油屋さんでは本醸造醤油を造っている会社はなく、『つゆ』の原料となる醤油を新式醸造から本醸造に変更しようにも手に入れる事が出来ませんでした。そこで、県外の会社さんをご紹介頂き、原料を本醸造醤油に替え『つゆ』を一から作り直すことにしました。
それから、何度も何度も試作を繰り返し、おそば屋さん・うどん屋さんから、
「この『つゆ』だったら良いでしょ」と言う返事をようやく頂くことが出来ました。お店用のそばうどんつゆ用として、15ケース・30ケースと購入して頂き、順調なスタートを切った『つゆ』でしたが、おそば屋さんではお客様に「味かわった?」と言われ、遂にはおそば屋さんから「これ以上は買えない」と言われてしまいます。佐竹はこの時初めて「商品はお店さんに買っていただけるのではなく、その向こうにいるお客様に買っていただけるのだ」と気が付きました。
 そこで、昭和54年5月3日、栃木県の上野百貨店様の物産展で『味どうらくの里』の販売をスタートさせました。しかし、物産展が終わってもお店様から『味どうらくの里』は定番商品として置けないと言われてしまいました。お店様で欲しかったのは『味どうらくの里』ではなくて、一緒に販売した味噌だけだったのです。

第三章 行動と発想の転換

 そこから始めたのが試食販売でした。
地元で『味どうらくの里』を知って頂くために、近所の工場のお昼休みに行って、うどんをつくり、味を見て頂きました。現在のように問屋さんとのお取引がほとんど無く、ツテをたどりながらでした。
 秋田県南部と山形庄内で同行販売も致しました。
同行販売とは問屋さんのご紹介で二次店さんや小売店さんに商品をご紹介しながら販売していくことです。ビニールコップとお湯を入れたポットを持って5倍に薄めて「味を見てください」と試食をお願いし、味どうらくの里500ミリ1ケースに対して100ミリのサンプルを40本付け、お店様に置いて頂きました。
 県南部にあるお店の担当者様には同行販売で伺うといつも声を掛けていただきました。
「何日かかってもいいから、おまえが自分で売れなぁ。商品を置いていっていいから」と言って下さいました。
しかし、一日に売れた本数は3本。そんな姿を見て、よほど心配して家でも話題にしてくれていたのでしょう。
「内のお袋がなぁ。煮物に使って美味しいと言うんだよ。玉子納豆にも合うんだよ。お袋が好きでなぁ」と言うと段ボールに『万能つゆ』とマジックで書いてくれたのです。それから、うどんそばつゆとして販売していた『味どうらくの里』は『万能つゆ 味どうらくの里』として販売を始めました。
又、同行販売で買ってもらった『味どうらくの里』を、お店で売り切る迄、試食販売を行い、何故買ってもらえないかをお聞きし、考え、味を改良しながら勉強を致しました。
 同行販売を終えて会社に帰ると午後8時半頃になります。それから、会社の帳簿を付け、翌日の同行販売用にサンプル詰めを佐竹一人で行いました。もともと経営の思わしく無かった会社は、なかなか売れる気配がない『味どうらくの里』を作り続ける事で、ますます厳しいものとなって行きました。

第四章 「敬天愛人」の精神

 その結果はまもなく出ました。商品は売れず、100ミリサンプル20万本代2千万円が新たな借金となりました。それまでの借金もあって、一年間の売上げ(当時の年間売上げ6,700万円)と借金が同じ金額になり、取引銀行さんからはお金を貸せないと言われてしまいます。当時の社内には「こんな物をつくるから会社がダメになるんだ」と、厳しい言葉も有りました。
地元でも、東北醤油は倒産するよと、まことしやかに噂が流れはじめました。
「すべて俺の責任なんだ。死んでお詫びをしなければ」と一晩泣き明かしましたが、明け方にふと我に返り、泣いていても現状が変わるわけではない「もう一度だけ挑戦してみよう」と覚悟を決めました。それからは毎日バケツ30杯の行水と深夜の工場で座禅を欠かさず行い、一心に「どうしたらいい!!どうしたらいい!!」と自らに問い続けました。
その時、西郷隆盛さんの「敬天愛人」の言葉が脳裏に浮かびました。「全てを天に任せよ!!己は今日一日にただただ最善を尽くすのみ、人意を起こすな!!」と不安になる心、買ってもらいたい心も捨て、買って頂ける味を探し求め、勉強させて頂く事に致しました。
悪化した経営は、急には良くなるはずもなく、ついにどうにもならず、庄内の問屋さんに在庫が有るのに2トン車2台分を納品し、125万円の手形を頂いて来ました。大仙市の問屋さんでは20万円の手形を頂きました。地元の納入先の社長さんは、工場の燃料代金の支払いを先付けの小切手でだまって受け取って頂きました。

第五章 皆様に愛される「味どうらくの里」へ

そんな苦しい経営が続いていたある日、突然売れるようになったのです。
庄内の問屋さんから「商品持って来て!!」と電話が有りました。時同じくして県南地区の問屋さんからも連絡が有りました。天の神様仏様が見ていてくれたのだと思いました。
先に同行販売でお伺いした庄内の二次店さんの所から売れ出したのです。
「せっかくあいつが来てくれたから、何かに使えないかなぁ」と考えて、試供品を使って立ち寄ってくれたお客様へ、煮物を作って出してくれていました。そして「買わなくていいから、サンプルを使ってみて」といって渡していてくれたのです。そんな事を続けていたら、一つのお店様から「一箱置いていっていいですよ」と声を掛けてもらったのです。そこから火が付き『味どうらくの里』は売れ始めました。
 ある日の事、愛媛県のお客様から、「味どうらくの里が鯛そうめんに良く合いますよ」とお電話をもらいました。秋田から遠く離れた地で、郷土料理の鯛そうめんに利用して頂いているとは大変な驚きでした。

 このようにして、『万能つゆ 味どうらくの里』はようやく軌道に乗り始めました。
 『味どうらくの里』が誕生してから四年、昭和58年に売上げが一億円を突破。子供で言えば中学校に入学した程度になりました。
 その後、『万能つゆ 味どうらくの里』はいろいろなお料理に使えると名前が知られるようになり、さらに人気の高まりを見せ始めています。
今後とも『味どうらくの里』を通して、お客様に愛され、期待される東北醤油として、精進して参りますので何卒ご愛顧のほど、よろしくお願いいたします。